わかっている? 共感できてる?

 このツイートを見て、ちょっと考えたこと……

「わかる」ことと「共感」すること。この二つを区別する意識は、頭のどこかに置いておく必要があるんだよね。

どこまでが「わかる」で、「共感する」のはどういったことなのか、そんなことを考えないといけないから、区別といっても線引きが微妙で難しい。いわゆる、グレーゾーンの問題なんだけれど。


グレーゾーンの問題は、考えると苦しくなる。

なかなか解決方法が見つからない話だからね。真面目に考えようすればするほど、答えが出ない。一つの結論を出そうとすると、必ず、それに対する真っ当な反論も思いついてしまう。その反論を潰そうとすると、せっかく思いついた結論が曖昧になったり、時には間違ったもののように思えたり。

そういった思考作業を続けていると、モヤモヤした気分になる。このモヤモヤ感というのは、けっこう心を苦しめる。「正解が出せないのは、自分自身の力量が不足しているから」、そんなことまで考えることもあるだろうし。自分自身に対するダメ出しを繰り返す作業になるからね。


でも、この苦しさに耐えて考え続ける作業は、必要なんだと思う。こういった仕事をしていると、特に。必要とされる場面は、いろいろと思い浮かぶし、時には短時間で決断を迫られることもあるだろうし。


難しいね。やれやれ。

 

ちなみに……

返答するかどうかわからないけれど、最近こんなのも使ってます。基本的には、マシュマロのやり取りの場なので :-p

marshmallow-qa.com

十分な手当てをしたいけれど、人には腕は2本しかない

認知症にしろ、依存症にしろ、他の疾患にしろ。

従来のやり方とは違った新しいアプローチでの治療についた本を、時々読んでいる。

新しいアプローチといっても、そんなに目新しことを言っているようには、思えない。

基本的には「手をかけた治療」をしましょう、ということ。

それだけの話である。


「手をかけた治療」は、高い治療効果を期待できる。多分、それは間違いない。

ただし、その治療の運用は、とても難しくて、簡単にできることじゃないはず。

 

一個人が「手をかけた『正しい』治療」をする(しようとする)ことは、間違いじゃない。

でも、「より正しい」治療をしようと思うと、個人ではなくて、チームで行わざるを得なくなる。それは、「手をかける」治療に、複数の人が関わることになる。そうなると、複数の人を運用するための、しっかりとしたシステムが必要。なかなか簡単にできることじゃない。


「手をかけた治療」が可能なシステムができなければ、次善の「正しい」治療で対応することになる。

ところが、そこに「最善でないことを良しとしない」力が働くと、治療そのものが成立し難くなる。ただ、この力は間違いじゃないだけに、話がややこしくなる。


過去の治療。当時のレベルでそれなりに正しかった治療を、「今、最適ではない治療だから」という理由で叩きすぎると、逆に治療を受けられなくなるリスクというものがあるんじゃないかなぁ。


場末の民間精神病院で働いていると、ついついそんなことを考える。

やれやれ。

 

理解や共感ができなくても、できることはある

うちの子供が厨二になったけど……

厨二期の子供がいる知人から、個人的な相談をうけた。

相談の要約:

「子供の厨二的な趣味につきあって、理解したり、共感をしたりした方がいいのかい?」

 おいらの返事:

「やめとけ」

「『他人からは理解され難いものがある。でも、自分はその良さを知っている』というのが、厨二期のアイデンティティ。他人が、むしろ親だからこそ、中途半端に理解や共感を示されると、よけいに拗れる」

 大人の役割ってものがある

サービスで、追加のアドバイス

「ただし、その趣味を知っておくことは、悪いことではない」

「知っておいた上で、中途半端な共感や理解を示したくなるのをグッとこらえて見守る。それが、親というより大人の役割」

「見守る」って楽じゃない

診療の場面。「見守る」ことが必要な場面でも「見守れない」人が時々いる。

「待つ」とか「見守る」とか、そういった行為は受動的に見えて、ものすごく能動的な行為なんだよね。それができた時に、状況が好転するケース。少なくはない。

 

 

双極性障害に関する覚書

双極性障害とは?

双極性障害って、どんな病気なの?」という問いかけ。

こういった問題は、非常に答えが難しい。

あえて答えるとすれば、「思ってる以上に心が不安定になってしまう病気です」というのが、おいらの答えの一つ。


双極性障害躁うつ病と言って、ハイテンションなったり、落ち込んだりを繰り返す病気です」そう考えちゃうと、治療の流れから何かが外れてしまう。そんな不安がある。

うつ病心の風邪です」といった、あの有名なフレーズと同じように。

 

先生は病気だって言うけれど、元々こんな人間なんですよ

双極性障害では軽躁状態や、軽度抑うつ状態の判断が重要になってくる。

双極性障害は、心が不安定になっている状態」といった。軽躁状態や、軽度抑うつ状態の心の不安定さは、自動車のエンジンの不調と同じようなもの。

 

エンジン周りが多少不安定であっても、自動車はそれなりに走ることができる。

それなりに走ってる自動車を遠くから見ていても、なかなかエンジンに不調があることはわからない。

その車に乗せてもらったにしても、普段乗っていない自動車のエンジンの反応のおかしさは、やはりわからない。

たとえその車の持ち主であっても、乗り慣れていれば、乗り慣れてるほど、そのエンジンの不調は、エンジンそのものの個性だと思って、気がつくことが難しいこともある。


エンジン周りの挙動に癖がある自動車。この癖が、エンジン周りの不調によるものなのか、それとも車の個性という味というか魅力のようなものなのか。この区別は、かなり難しい。

同じように、軽度双極性障害も難しい。

個性と障害を、どこで線引きするか。その線の引き方に、治療者の判断やセンスが問われる。

「うつ病」と名付けられるものなのか

 www.buzzfeed.com

 

この記事の本筋とは少しズレたところで、「お話」の範囲内で、気になったことがあったので、少し書きとめてみる。

うつ病」と名付けられるものなのか……

おいらならば、「うつ病」とは名付けずに、あくまでも「抑うつ状態」という名付けのままで扱うかな。精神科医療という手段で、うまく楽にさせてあげることができるかどうか、正直自信は無い。ただ、ほぼ見守るだけの形で終わるような気がする。

 

長期間続く悲嘆反応とそれに伴う抑うつ状態。これを「うつ病」と名付けるのが正解かどうか。名付けることによって、扱いやすくもなるし、逆に見えなくなってしまったものもあるように思える。

もちろん。
これは医療での名付け問題ではなくて、宗教で扱われるべき問題だよ。
そう考えるのも一つの方法。

長期間にわたる了解可能な深い哀しみと、疲弊したことによる意欲の低下。これを病気と解釈するのか、正常の心の動きと解釈するのか。ここの線引きと心の状態への「名付け」は本当に難しい。やれやれ。

今の「気分」を言葉にすると……

脳だけが旅をする: ヤンスタ
リンク先は、今日のヤンデル先生のブログ記事。今回は、最近始められた、自身のインスタグラムに関するエッセイです。
ある部分を読んで、その内容の凄さに思わずひっくり返りました。その部分を引用します。

顕微鏡写真をいくつかアップしている。ヒマな人はぜひ、見てみて欲しい。それらの写真には、詳しい説明は付けていない。とにかく「接写」した写真だ。それを撮ったときのぼくの気分をキャプションにつけておくことにする。

インスタグラムの顕微鏡写真につけられたキャプション。あれが「気分」なのか。びっくりするしかありませんでした。
確認してもらえばわかりますが、顕微鏡写真につけられたキャプションの文章、すごいんです。
丁寧に、おそらくは厳選して選ばれた言葉が、丁寧に積み重ねられています。そんな言葉の塊が現しているものを「気分」といっている。
気分とは、こんなに言葉を要するものなんだろうか?
いやそうなんだろうね。本来、気分とは、こうやって現されるものなんですよね。これだけの言葉を必要とするものなんですよね。

 

「気分」を「感じているもの」とすれば、「思っていること」や「考えていること」というのは、その先にあるものじゃないかと思ってます。
「思っていること」を現すには、「感じているもの」から、更に「言葉」を必要とする。
「考えていること」を現すには、「思っているもの」から、更に「論理」を必要とする。

おいらは、使っている「言葉」が足りないし、練られた「論理」はもっと足りません。
まだまだ修練が必要だなぁ……

いち病理医の「リアル」

いち病理医の「リアル」

 

 親しみやすい言葉で語りかけられるような内容なんだけれど、ヤンデル先生の「思っているもの」の一端であって、「考えていること」は、この先にあるんだろうな……

よくわからないから「不安」なんだ

 以下のリンクは、病理医ヤンデル先生のブログ記事。このブログを読むのは、毎朝の日課になってしまった。

dryandel.blogspot.jp

本筋から逸れた、言葉遊び的な突っ込みだけれど。「不安」についての解釈が正しくて、さすがだなぁと妙なところで感心。 

「不安」って、漠然としたものなんだよねぇ

以下は、「第4版 精神医学」の精神症候学での不安についての説明。

正常な不安は人間誰しもときに応じて感じるものである。個人の保持、生存がおびやかされたとき、地位の保持、向上があやぶまれたとき、未知の事柄、状況に直面したとき不安が起こる。
病的不安とは、はっきりした対象のない、あるいはごくわずかな事柄で引き起こされるものであり、 その程度が強くて持続的なものをいう。 正常な不安が危険をさけ、 恒常的努力の原動力となる効用があるのに対して、 病的不安ではその効用はなく、 不安そのものに振り回される。 臨床的に不安とは病的不安のことである。

 

 「何が原因なのか。どうして、こんな感じになるのか、自分でもよくわからないんですけれど。ものすごく不安になることがあるんですよ。これって、何ですか?本当のこと、教えてください」という訴えられる場面が、しばしば。

ネタにマジレス的対応だと、「それが不安です」としか答えようがなくて……

「本当のこと」を求めると難しくなる

一番ネックになるのが「本当のことを知りたい」という気持ち。

この気持ちの取り扱い方が、一番難しいんだよね。
ネタにマジレス的な「正しい」アプローチで対応しようとすると、話が本当にややこしくなってしまう。

知りたいものは、「本当のこと」よりも「心が落ち着ける何か」なんだろうけれど。

「本当のこと」に執着されると、解決の糸口が見えにくくなってしまうわけで。なぜなら、「本当のこと」は一つのようで、一つじゃないから。

難しいよね。

やれやれ。

おまけ

精神症候学ではなく、身体的な症候論についてのわかりやすい教科書といえば、こちら。

症状を知り、病気を探る 病理医ヤンデル先生が「わかりやすく」語る
 

 

今現在、ヤンデル先生の「面白さ」は、学問と心象風景の間に漂っているんだよね。少し学問よりの「面白さ」を楽しむのなら、この一冊。

いち病理医の「リアル」

いち病理医の「リアル」