おいらは「面倒くさい」タイプのはず

お仕事で、患者さんよりも家族と話をしている時に、より感じること。

「よく考える」人は、うざい

自分より「よく考える」人が話をしてくる。その話って、かなり「面倒くさい」と感じてしまう。

「正しく、よく考える」人であれば、更に「面倒くささ」が強くなる。
ところが、そういうタイプの人は、こちらの気持ちを察知すると、更に「正しい」話をしてくる。「面倒くさい」ことが増えていく。でも、話をしてくる人の方は、どこか嬉しそうであったり、情熱的だったりする。そういうところも、「面倒くさく」て、うざい。

「正しい」ことをわかってもらうには、より「正しく」ないと

「正しく、よく考える」人は、「正しさ」が最後に勝つこと、勝利が喜びをもたらすことを信じている。
だから、「正しい」話がわかってくれそうに無いときには、より「正しい」話が必要なんだと、より「考える」。伝える内容が、ひたすら増えていく。

側で見ていると、どんどん話が長くなって、「面倒くささ」が増えていく。

「面倒くさい」ことは悪いことでは無い

価値観や思考の方向性が一致したとき、「面倒くささ」は楽しみに変わる。
自然に師弟関係や仲間意識が芽生えて、「面倒くさい」ことを共有していく時間が、その関係や意識を強化して喜びが生まれる。

だから、「面倒くさい」話をするときには、価値観や思考の方向性の確認が必要。
そこに違いがあるようであれば、「面倒くさい」ものを緩和する戦略を立てることが、話す側に要求される。

病気の治療の説明なんて

病気の治療の説明。この前提だけで、もう考えるのが嫌な、「面倒」な話になる。
ましてや、「より正しい」話で説明しようとすると、「面倒くささ」のレベルは跳ね上がる。
だって、相手は説明を聞き入れると、生活習慣を変えたり、辛いことを受け入れたり、色々なことをあきらめたりしないといけなくなる。
とにかく、普通に「面倒くさい」。

だから、説明の「面倒くささ」を緩和する戦略が必要になる。
例えば、「正しさ」の純度を犠牲にするのも一つの方法。他にも、色々なやり方は考えられる。
多分、誰にでも受け入れられる、絶対正しい正解は存在しない。
やれやれ。

 

ところで、池○彰さん……

ネット上で見かける、池○彰さんへの批判。それを見ていると、もしかしたらと思う。

「正しい内容」を伝えることを諦めたんじゃないかしらん。

内容の「正しさ」の精度を上げることではなく、「面倒くささ」を減らしていくことに、プレゼンテーションの重心を移しつつある結果が、この批判じゃないかと。

説明する対象が子供から世間一般に変わって、「面倒くささ」を感じる層を、より相手にせざるをえなくなったからなんじゃないかと。
ほんとうにそうなのかどうか、知らんけど :-p